近状報告とか…
先日1月17日は阪神・淡路大震災から17年という事で去年の1月17日よりも震災について考え思う気持ちを持った人が多く増えたのではないでしょうか。
あの3・11の地震も今では時が経ちあと2ヶ月程で1年となります。
時が経つにつれて災害などの記憶は薄れていくと言うのが一番恐ろしいものです…
皆さんも“今だけ”の災害対策ではなく、いつ起こるかわからないからこそ長期にわたり対策をしていただけたらと思います。
さて、最初からちょっと暗い話ですが、とりあえず私の身の回りのことについて話そうかと思います。
まずは大学関係の話。
先日1月17日は私の大学での講義が最後の日でした。
と言っても、夕方から始まるゼミで課題製作の発表だけでしたが…
しかし何だか感慨深いものですね。
今まではまだ時間があるとか思っていましたが、そんな時間もあっという間…
大学へ行く道もどこと無く寂しく感じすべてが新鮮に見えました。
そしてゼミの課題製作発表も終わり帰り際に教授と話をして帰路へとつきました。
帰りはいつもより少し早い時間に終わったのでこの時期ではなかなか見れない沈み行く夕日を見ながらの帰り道となりました。
…何だか寂しい気分がよりぐっと強まりましたね。
そんな時に心にしみる曲がイヤフォンから流れてくるとより染みますね…
…??
そんなことより卒業できるのかって?
…えっ……あ…あったりまえじゃないですか…
…ウソです!ちゃんと卒業できる単位はありますよ♪
という事で、後は学位授与式のみです!
…さて、大学関係はこの辺にして、最後にちょっと難しく悲しい話をしようと思います。
実は去年の暮れ身内が亡くなりました。
家族のほとんどがあまり仲は良くなかったので生きている頃は正直悩みの種でした。
そんな身内が亡くなってからは家の中が少々変わった感じで、家族としての時間が過ごせるというのができる様になりました。
と、この様な書き方だと冷酷な人間だと言われそうですがそれに関してはわからない人にはわからない言葉だけでは表せないデリケートな問題などがありますので、そこはあまり触れていただきたいのです。
問題はそこではなく、どんな人間であっても亡くなるというのは不思議と気持ちが抜けるというか、微妙な気持ちになる気がします。
これも言葉にはできませんが、火葬場で焼かれて骨になり、それを骨壷に入れる。
この流れが昔からどうも苦手です。
この様なことを体験すると死についてどうも深く考えすぎてしまうようで、どうしようもない虚無感と悲しさが頭を巡ります。
何というか死ぬことについて考えるとキリがないですよね…
自分の持論ではそもそもこの世の中に生きていることが本来の自分であると考えているが、実際はこの世に生きているときに持っている肉体は仮の器で本当の自分(本体)はあくまで魂や想いなどであるのだと…
そして、仮の器である肉体を失った後は夢を見るような感覚で過ごすのではないだろうか?
この世にいた時に良いことをすればいい夢を見れるし、悪いことをすれば悪い夢を見る。
そして、また次の仮の器までその夢を見続けるのではないだろうか…
と物凄く怪しげなこと書きましたが、あくまで私自身は無宗教ですし、変な思想を押し付けたりする気もありません。
そもそもこの様な思想は答えなんて無いんです。
亡くなった人に死後の世界のレポートを書いてもらうわけにいかないのでこれは亡くなった時にしか分からないのです。
だからこの世に生きている人間が人の気持ちを完全に理解することもできないし、まして人間を理解することはできないと思っています。
人は亡くなった時に人間を理解し感情を知り、すべてが分かるのではないかと考えている。
またまた脱線してしまいましたが、最初の話を簡単にすると、どんな人間が相手でも死というものに直面するとやはり悲しみの感情はどこかしらにあるのかなと感じましたということです…多分…
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